死は専門家だけのモノじゃないぞ!死の民主化革命!

雑記

誰だって死ぬんだぜ!

一般人も死ぬんだから、一般人が死について語る場がもっとあってもいいと感じるのです。

専門家はもちろん知識があるし、役割も大切。 でも、専門家が語るときにはどうしても 立場・責任・収入・組織 ・訴訟問題がついて回る。

  • 医師 → 医療機関の立場
  • 宗教家 → 教団の立場
  • カウンセラー → 職業としての立場
  • 研究者 → 学会や論文の立場

つまり、彼らの言葉には 「職業としての制約」 があるのでしょう。

まあ、わかりました。

YMYLとか専門家たちが私たちや専門家自身をも護っているのだとしても、いざ死と対峙するのはあなた、自分ですよ。

死ぬのは死や病の専門家だけではありません。

頭の良い医者や宗教学者が言うのだからそれに従っていれば間違いない…と思考停止していては自分の死に方を見失うことになります。

悪い例え

お布施が足りないから病に侵される続けるのです…とか

病院経営的に利益率の高い、高額な治療や新薬を試して続けてみましょう…とか

そのような言葉に真っ向から自分の意見は言えますかね?

それは自分に必要ありません!

と信念を貫くには、自分の死に方(生き様)を自分自身で明確に持っている人でないとなかなか言えないと思います。

現代社会では、死はどんどん専門家の領域に押し込められている。

  • 病院で死ぬ
  • 専門家が説明する
  • 専門家が処理する
  • 専門家が語る

その結果、 死が「自分のもの」ではなくなってしまった。

昔、死は身近なものとして生活の一部だったらしいです。医療も発達していなく、衛生環境も現在ほどよろしくない。そして人はあっけなく死ぬ。

皆そういうものだと思って生活している。

ちょっとしたことで人は死ぬ。

得体のしれぬ、伝染病でバタバタ人が死ぬ。

祟りだといって恐れおののき死んでゆく。

明日には自分もそうなるかもしれないと日々を生きている。

皆そういうものだと思っている。

それが自分の自分たちの地域の死なのであって誰かの指図は受けない死。

民主的な死

なのだと思います。

シャーマンや祈とう師のような人は存在していたと思うのですが、死んだことをシャーマンや祈とう師に責任転嫁をすることはないでしょう。

最終的に死を受け入れるのは本人なのです。

話は少しそれますが、

自分の体験談として、爺さんとひい爺さんの土葬に参加したという体験をしました。

死ぬと土に埋める!

そういうものなのだなと子供のころから思ってました。

そういえば、死んだ金魚もカブトムシも土に埋めたっけ…

どこの国のお墓もたいてい地面の上に墓標が建っていて、その下に故人がいるようなイメージになっている。

今現代では死は身近なものではなくなって、触れてはいけないものとして現代人の背後に張り付いているのです。

ではどうしたらいいのか?

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