まとめ
一般的に、死と言えば。勝手に向こうからやってきて、自分の力ではどうしようもないというイメージが強いのですが、そのような感覚はこのブログではあまり推奨しません。
自分ではどうすることもできないのは全くその通りなのですが、だからと言って無関心になることでは何も生まないからです。
死の哲学も生まれません。
死に関心がないと、いざという時に対応を間違ったり初動が鈍くなったりすることがあります。周囲(医者や遠い親族)の意見を鵜呑みにしてしまう事がある為です。
今回の記事では、死をタスクと感じる事によって今自分が何をするべきなのかを考えてみようという提案をしてきました。
しなくてはならない事があるのなら、それを見定めて計画を立てて対処する事になります。
みなさんも、宿題や仕事でも同じような事は自然とやっています。
それを死ぬ事に対してやるだけの事です。
長生きを目指すのか、早めに死にたいと願うのか、とっとと自殺して全てを終わらせようとするのかは自分自身にかかっていますので、他人がどうのこうの言う事はできません。
しかし、死は必ずやってきますので対峙しなくてはなりません。
対峙しなくてはならない事はハッキリしていますので、事故のようなアクシデントでなければ対策を練る時間はあります。
死はタスクとの考え方を有効に利用すれば、得体のしれない死というモノの輪郭だけでもイメージできるものと考えます。
自分なりの死をイメージしてそれを打ち負かすのか、友達になるのか、乗り込むのか、さらわれるのか、押しつぶされるのか、燃やされるのか、切り刻まれるのか、どうなりたいのかを考えることができたのならば、良い最期が迎えられるような気がします。
人生にはいろいろな事が巻き起こります。
楽しい事、嬉しい事、辛い事、悲し事…そのすべての感情に死というフィルター越しに眺めてみると、違った見方ができると思います。
死とは一体何者なのか?
人生の意味を求める人もいるかと思いますが、
死にも何かの意味があるはずだ!
自分の死の哲学を持って、死というタスクをこなすためには今からスグにできる事があるはずです。
死の事を考えて、死までの時間をどのように過ごすのか、のんびり考えてみるのもいかがでしょうか?
”死テラシーブログ”