子供を殺す日本の風習 殺児 堕胎の話!

歴史

子供の命は軽い?

王朝時代では「今昔物語」に難産の苦しみを逃れるために堕胎を企てた女性のことが書かれていて、「源順集」には堕胎に関する和歌が載っています。

下級層の人々は生活が苦しいので殺児をしていました。

物語や本、歌集に堕胎のことが普通に記されているということは、罪悪感は全くないかのような印象を受けますね。

今でいうと、堕胎や殺児の出来事をイッターでつぶやいたり、インスタに載せたりでしょうか。それは言い過ぎか

江戸時代では、各藩の圧政によって主に地方民の生活苦などにより、殺児が全国的に広がったといわれています。

方法は窒息によるもので、以下によります

・出産したと同時に母親が膝に敷いて圧殺する

・絞殺

・顔に布きれや紙片を張っての窒息死

・草やわらを口の中に入れて窒息死

・臼のような重いもので圧死

・土中にうめる

・産婆に命じて絞殺

などがあったことが記録されています。

江戸時代の堕胎、殺児は、徳川期300年を通して人口の増減がほぼなかったという事実がありますが、殺児と関係があるように思えます。

全国の産児制限の例

日向では一児製。日立、上野、下総ではだいたい二児製。関東~奥州では百姓は一~三人、四人目以降は殺していたと言われています。これらの中には女児のみを殺した村もあったようです。

迷信、奇形を嫌ったもの

土佐では双子や三つ子を恥として殺されました。双子が産まれたときはその一人、特に男女の双子は「畜生腹」といって忌み嫌われました。

この結果、あたりまえですが。人口減少、農村疲弊、税金減収になり幕府や各藩は様々な禁止令を出したが、いづれも刑罰は軽かったといわれています。

殺児を禁止する布令や触書には効果はなかったようです。

幕府各藩による貧民の救済

赤ちゃん保育の促進

妊婦手当金給付

出産時の産婆利用促進

生後、赤ちゃん手当金を給付

幕府各藩様々な対応策をしたが、貧困階層、下級階層の堕胎・殺児の風習は暗黙の了解とされ明治維新になっても殺児の悪習はなくならかったそうです。

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