命は誰のためにある? ある軍人一家の話(涙が止まらない)

歴史

みなさんこんにちは、ブログ界の極地を漂流中の

”死テラシーブログ”

でございます。

今回もいつものように本を読んで印象に残ったことから、死生観を学ぶ部分を抜粋して、今後の人生に生かせることができるように、思った事を綴ってまいります。

今回の記事は、歴史・戦争ものになります。

戦争というと

”死”

という描写は必ず出てきます。

悲劇的な死の描写は人々の感性を揺さぶり、物語になりやすく戦争の過ちを二度と繰り返さないためにも有効な手段でもあります。

戦争での悲劇的な死の描写や歴史は、伝えられ残されている部分はほんのわずかで、実際はもっと壮絶な事がおこっていたのではないだろうかと想像してしまいます。

戦時下では戦地や軍人、政治家だけが戦争実行者なのでは無くて、そこに生きている関係する人々全てが、

戦争中

なのです。

だから、その人々、個人個人全てに

物語が

あるのですね。

その一つの物語、一つの家族に本を通して出会ったので、ご紹介と今後どのように生きていくべきかを考察してみようと思います。

ちょっと涙無しには語れない内容になります。  本当に書きながら泣いてます…

参考図書・あした死ぬかもよ  著・ひすいこうたろう

この書籍は、

死を受け止めて生を輝かせ、しっかり生きてしっかり人生を歩んで行こう。

といったような内容になります。戦争中心の書籍ではありません。

興味のある方は、ぜひ読んでいただきたいと思ます。

その一つの項に太平洋戦争・大東亜戦争の戦時下にある軍人一家の心中の話が紹介されていました。

その家族(母親)は、軍人である夫の希望を叶えるために3歳と生後4ヵ月の女の子と3人で、

厳寒の河川にて入水自殺を遂げるのです。

そのような出来事が紹介されていました。

お国のためにと、特攻で命を落としていった若き兵隊さん、

教え子が特攻で命を落としてゆくことに葛藤が芽生え、自ら特攻を志願する教官、

教官である夫の強い意志に応えるために、子供を連れて心中を成し遂げた妻、

お母さんとずっと一緒がいい、と思ったであろう幼い姉妹、

家族と教え子の命に報いるために、念願の特攻で命を尽くした教官…

彼らはいったい誰のために、何のために死んでいったのか?

捧げられた彼らの命の根源とはいったい何だったのか?

 

いきなり結論です。

命とは誰のモノなのだ?

当然、自分のモノだろう!

だから、誰かに捧げてもいいモノなのか?

そもそも、命とは捧げるものなのか?

いや違う、

命とは第一に

自分のためにあるものと認識し

そして、

誰かのために

【生きるのだ!】

と、私はこのように思っています。

 

しかし、残念な事にこれはきれいごと。

現代の日本の価値観では仮にそうであっても、時代や環境、権力者の政策によって民衆の考え方の価値観は変わります。

当時戦時下の日本人の価値観、日本人と大きく括ってはいけません、この母親の気持ちは誰にもわかりません。

推測や憶測では無くて、現実の出来事、事実だけを見てみましょう。

どうしてそうのような事態になってしまったのか?

次の項で説明しますね。

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