まとめ・自殺やいじめは無くならない…ならどうする?
日本人の自殺は多いそうです、年間二万人程いるそうですが、それが多いとするのか少ないとするのか統計のやり方や個人の感想によってどっちにでも転ぶので多いのか少ないとはハッキリ言えないのですが、(遺書の無い変死は自殺に入らないそうです)とにかく自殺やいじめはあります。
どこの世界でもいつの時代にでも自殺者はいますので、今まで見て来たように日本の文化や土地の風土という理由だけで自殺する人がいるのかといえばそうではありません。
自殺を減らすとか、不幸な人を減らしたいという事はここでは触れませんが、日本人が生きてきた歴史を顧みる事で古来から続く日本人の精神の扉を開ける事はできると思います。
その中身をのぞき込んでみて何かを感じる事は必要です。
それで自殺を停める事はできませんが、歴史を学ぶことによる瞬間的な時間的な隙間や心境の変化は少なからずあると思います。
キレイごとは一切なしで、いじめやブラック労働やハラスメントは無くなる事はありません。
当然、自殺もなくなることはありません。
歴史を覗いてみてみれば、自殺でなくても掟を破ったものは公開処刑することでコミュニティーが維持されて団結力が向上する場合もあります。
自身を護るために嘘をつき、他人を陥れ強者に忖度をすることは、コミュニティーを存続ささるために、潤滑油として必要になるという事も知っておくことが大切です。
そこには空気感というものが必ず存在します。
空気が読めない
くうきK よめないY KYという言葉が過去に流行りました。
空気が読めない人は自殺はしないのでしょうが、空気を読み過ぎて迷う人が自殺をしたがります。
そこのコミュニティーにどうしても合わない、
自分だったらどうする?
自殺しますか?
逃げますか?
個人でできる事と言えば、歴史を学び自分なりの死生観を確立する事です。
今回は鎌倉時代の総惣村や一味神水の視点から、忖度やいじめといったような現代でもよくある事柄を見てきましたが、いつの時代も同じような事が繰り返されていることを認識することもおもしろいと思います。
もしかしたら、縄文時代にも忖度やいじめ自殺はあったかもしれません。生物誕生の時代の生物たちにもあったかもしれません。
絶対的な権力者から身を護るために共同体を結成して、対等な立場を得る代わりに一個人は一つの大きな力の一部になることが絶対条件だとすると、必ず生きづらさというものは現れます。
鎌倉時代にいじめや忖度が存在していたのかどうかは知らないのですが、現代では存在している事は事実です。
どうしても死にたくなったら死ぬしかない
極論的に言えばそうなります。
共同体を維持するためには、皆の協力が不可欠なのですがそれについていけない個人もいます。
細胞の世界でも異物は排除されることは先の項でも述べました。
死んで異物は取り除かれますが、コミュニティーやその場の空気感はその次の二番目の違和感を排除しにかかります。
誰が命令したわけではないが何となくそんな空気になってしまうようなことは、経験した人はいるでしょう。
だったらどうする?
どうしましょうかね…(;’∀’)
はいっ!
最終結論を言います!
自分で判断するしかありません!
コミュニティーについていけずに自ら死を選ぶことがあるかもしれない
という未来を妄想して生きてみる事が大事です!
自分は絶対大丈夫だという根拠のない妄想も大切ですし、そうならないように努力することも大切なのですが、その場の空気感がそれを許さない場合があります。
皆のために一生懸命やっていたのに、皆から白い目で見られるなんてことはよくある事です。まさにいじめの初期段階です。
いつかは自分も自殺をするかもしれないという想像力の方向性や角度の広さは、いざという時に何かの役に立つかもしれません。
これが今回の結論になります。
生きるも死ぬも自分次第、その場その時の空気感なので、お気楽に参りましょう。
”死テラシーブログ”