不摂生や趣味、祭りで死んでみる
これは一番おススメです!私もこのように死にたい。
私自身もバイクに乗ったり、山登りをしたりとアクティビティーな趣味を持っていますが、もちろん毎回死を覚悟しています。
遊びに出かけて家に帰って来た時は生きて帰ってこれたな~なんて実感したりします。
また、冬山での遭難やスキューバダイビングでの事故、モータースポーツでの事故で死亡が確認されたなどというニュースを見るたびに、趣味で死ぬなんてどんなに最高の人生なのだろうと羨ましいと思ってしまいます。
お祭りの事故もそうです。
ここでふと疑問が生まれます。
お祭りでの事故死は信仰上どのような扱いになるのでしょうか?
お祭りとは神事ですよね、信仰のイベントで命を落とした魂はその後どのようになってしまうのでしょうか?
素人感覚ではお祭りのアクシデントによって死んだ魂は優遇されて、死後はワンランク上の楽しい生活が約束されているように感じてしまいます。
だって神様への奉納イベントで死ぬなんてなんて神々しい死に方なんだって思いません?
では本人目線ではどうでしょう?
町内会の祭りの実行役員にくじ引きで選ばれて、やりたくもない祭りに参加してそして命を落とした場合、やはり次の世界では良い生活が約束されたとしてもその心境はいかがなものでしょうか?
その本人からしてみたら死にたくなかったはずです、その行為が自分がやりたかったことでは無いからです。
要するにどのような事でもやりたい事をやっている最中のアクシデントで死んだとしたのならばそれは幸せな死なのだと思います。
酒やタバコも似たようなモノです。
酒やタバコを大量に体内に取り入れる人は健康や長生きを目的とはしていません、その場その場の快楽を選んでいる事でしょう。依存症ってう言い方の方が正しいかと思います。
ましてや国へ割高な税金をわざわざ自分から支払っているのですね。
やらずにはいられないそれが生きがい、その先に不摂生が原因での死がある事は何となくの想像でしかない感覚です。
酒やタバコによって死ぬかもしれないが、今すぐではないと高を括っている事でしょう。
だとしたら楽しい事をやり続けて人によってはそれが健康、長寿へ繋がり酒やタバコのおかげで長生きをするなんて人もいますので、それは人それぞれです。
不摂生=病→死とも限らないのです。
だから、やりたい事をやって人生楽しく生きて病気が訪れたのならばさっさと死んでいくという生き方は理想的だと思うのです。
もちろん確率で言うと不摂生をしていると死ぬ確率も上がるとはよく言われている事ですね。
目的を死ぬ事という理由では無くて、やりたいと思った趣味を思う存分楽しむ、危険を伴うアクティビティをとことんやる、登山やスキューバダイビング、モーターレース、酒やたばこを思う存分楽しむ、紛争地帯でのボランティア活動や義勇兵として戦地へ赴く…等してみる、そうすることによって死が近づく事にもなり得ます。
何もやる気が起こらないなら、食べもしない、動かない、起き上がらない、日を浴びない…そのような生活をしていたら、死が訪れる時期が早まることもあるような気もします。
早く死にたいからといって、わざわざ自分から死にに行くような事をするという事では無くて、生きがいやプライドを持って行動する、または家に引きこもって食事も入浴も何もやらないことで死へと近づくこともある。
という事を踏まえて生きてみるのもいいと思います。