死ぬ瞬間は恥ずかしい?
みなさん、家族・友人知人とほぼ永久的な別れが訪れるとしたら、どのように別れますか?
きっと、それぞれ最後の晩餐みたいに少しもの悲しい、でも少し喜ばしい雰囲気の別れの会になるのではないでしょうか?
人によっては、あえて誰にも会わないで別れるという方もいる事でしょうし、盛大に盛り上がり皆に見送られる思い出を最後にしたいという方もいるでしょう。
家族だけのお別れ会という方もいるでしょう。
そこで、問題になることと言えば、自分自身での死へのタイミングは選べないという事と、意識が無くなるという事です。
意識が亡くなる前に、感謝を伝える事の大切さは今まで腐るほど書いてきましたが、ここでは意識が無くなる直前での逝き方を考えてみたいと思います。
死の瞬間は恥ずかしい?
考えてみたら、何かをする瞬間って他人に見られるとなるとちょっと恥ずかしくないですか?
気合を入れて、よしやるかぁ!がんばろー!自分だけのルーティーン!
電源をオンにするとき、何もオンにするときでは無くて、いつもの癖のようなモノ、
例えば朝起きての大袈裟なあくびとか、大きなため息とか、意味不明な発声、奇声…
それを誰かに見られていたら恥ずかしいと感じるのは私だけはないはずです。
だから、死ぬ瞬間の命の電源をOFFにする瞬間も、出来れば誰にも見られたくないという何かが働くのではないでしょうか?
死期が迫った入院中のベッドの上では、医療器械に監視され看護師やドクター、親族に囲まれていたのでは、ゆっくり落ち着いて逝くこともできなくなっているようにも感じてしまいます。
お迎えが来ないとか、昏睡状態がずっと続くなどという場合は、いつも誰かにじっと観察されて、応援されて悲しまれていたのでは恥ずかしくて死ぬ瞬間を見せたくないからなかなか死ぬ事ができないのかもしれません。(私見)
私なら恥ずかしくしょうがないので、ほっておいてもらいたいですね、ひとりにさせて欲しい。
死ぬ事に集中したいのです。
死ぬ事に集中するという発想は、なかなか興味があります。死生観に関するイベントで出会った方が語っていたエピソードをご紹介します。
誰しもがそうだとは思わないのですが、死というイベントは人生最後で最大級のイベントです。
そのような大きな出来事をなんとな~くでやり過ごすなんてことはなるべくならしたくありません。
最後に爪痕(笑いの)を遺してやろうなんて考えるのは私だけでしょうか?
それは、集中して気を溜めるようにして、一気に勢い付けて死に向かってジャンプするような感じ。
個人差や症状、その時の具合によるところもありますが、本人が死ぬ事に集中しているようであれば、独りほっておくほうがスマートに逝けそうな気もします。