いつでも死ねるなら、何をする?
お疲れさまでした、まとめます。
オランダでは安楽死に対して、また死に対して国民全体的に関心が高いという事になります。これには古代からの歴史や民族、国土の地形や地質、気候によるものです。
オランダ人全てが安楽死賛成という訳でもありません。
もちろん反対する人たちもたくさんいます。
安楽死を賛成派、反対派と意見を隔てる必要も無くて、個人の意見が重要なのですね。
オランダの福祉はとても充実していて、老後や病気、終末期に独りで困るようなことは無いようです。そのような環境の中で安楽死を積極的に選ぶことは理解ができないという考えもあるようです。
賛成も反対もありますが、安楽死という法律がしっかり出来上がっているので、その法律の下自分自身どのように生きて行くのかをしっかり考える事ができるのだと思います。
根本的に言える事は
自由主義、個人主義
という事ですよね。
どのような死を選ぶことができるという自由があるので、自分自身で考えて勉強する。
自由とは良い言葉に聞こえますが、自分のハッキリとした考えが無いと何をしていいか、どこに行ったらいいのかが、わからなくなります。
ある程度の道筋があった方が日本人には合っているような気もします。
とにかく自由なので、
”やりたい事をやってダメなら死ねばいい”
これはちょっと極端ですが、何か挑戦するときに希望や目的、方法などいろいろ検討します。
その、最延長上の”死”を意識することでその挑戦が生き生きとしてくるのだと思います。
命を懸けて、なんて表現がありますよね。
前向きでたくましい言葉なのでしょう。
でも私にはこのような感じは疲れます。
命を懸けて、寝っ転がる。
命を懸けて、一日中何もしない。
命を懸けて、ゲームをやる。
命を懸けて、酒を飲む。
そのような生き方でも十分立派です。
今、あなたの生きるという行動は
命懸けで行っているのですから、辛くて大変であたりまえです。
その延長線上に”死”があります。
安楽死の法律が無くても、勝手に死が向こうからやってきます。
しかし、身体的にも精神的にも生きる事がとにかく辛い、という方もいます。
安楽死を実行するかしないかは別として、安楽死が存在することで心のゆとりができる事は想像できます。
安楽死には愛があると感じるには、生や死、医療や病、福祉や法律の勉強をしないといけません。
勉強をすればするほど、安楽死を安易に考える人は少なくなると感じます。
幼稚園・小学校から勉強してもいいくらいだと思っています。
安楽死を死ぬための便利な道具ではないという事は、オランダ人の方々は理解していると思います。
世間的に死の関心がないようなところに安楽死という思想が放り込まれても、死ぬための便利な道具と理解されて、議論が空回りしてしまうような気もします。
安楽死には愛がある
賛否はオランダにも当然あります。
オランダのように、国民、医療者、弁護士、議員…国を揺るがすほどの国民的関心が無い事には、どうにもなりません。
死は誰しもが経験する事なのですから、日本人だって死について関心を持って欲しいものですね。
自分が死ぬ特に、どのような状況になるのかいろいろなパターンを想像してみると、安楽死に頼りたいと願う事が万が一にもあるかもしれない…
未来はわかりません。
時を経て自分の意見が変わる事もあります。
安楽死に否定的な考えを持っていても、この先自分がどうなるかわかりません。
そのような事をイメージするのは大切です。
安楽死はダメ!
よりも
安楽死は使えるけど、今は使わない。
ギリギリまで使わない。
結局使わなかった。
最後は希望どおりの安楽死だった。
こっちの方が自由度があっていいのではないでしょうか?
安楽死を実行しようがしまいが、納得のいく人生の締めくくりができるのではないでしょうか?
安楽死という死に方を意識することで、生きる事の意味を見出せることもあるはずです。
安楽死には愛がある
可能性がある
と感じます。
みなさんはどのように感じるのでしょうか?
みなさんに良い死が訪れますように願っております。
”死テラシーブログ”
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