認知症という機能がなぜ人には備わっているのか?
まとめます
今回の記事は、自身の体験談によるもので一般的な認知症患者さんをケアしている方々には全く参考になることは無いのですが、たった一つの例により認知症の見方が少しでも変われば良いと思っています。(このブログは閲覧は0なので、それは無いのですが…)
認知症は患者を看取るという事は、とても大変な事です。
とても家族だけでは対応できる代物ではありません。
と言ってしまうと、とてもハードルが上がってしまい不安感しか残りませんが、認知症には良いところもあるんだよ、という一筋の光のようなものも必要なのではないかと思いました。
自分自身がわからなくなって、家族の顔もわからなくなる。
元気だったころの性格などはリセットされて、新しいナニモノかになってしまう。
バケモノになることもあります。
ゆっくり段階を経て死へと向かう道筋は、家族側の心の準備にもなり得ます。
認知症と持病がどんどん進行すると、終末期になれば痛みや不満も声にはならずに、ただただそこに佇んでいるだけ。
そして、まどろみの中で旅立ってゆく…
そのような死に方が理想で皆が憧れる事のようですが、実際目の前でこのような看取り体験をすると、意外に難しいような事でもないんじゃないかな、と思いさせられます。
昔の話をすれば、昭和の初めごろまではだいたい人はこのように死んで行くのが当たり前だったそうですし、死が身近にある事で死ぬまでの短い人生は幸せに感じる事が多いように思います。(根拠なしの私見)
最新医療によって人は病を克服し、長生きすれば新たな病が出現する。死にづらくなったから認知症患者が多くなるし、認知症のまま長生きする事になります。
認知症は得体のしれない死というものを忘れさせてくれる緩衝材なのだと思う事を提案してみました。
認知症患者をケアしている方から言わせると、そんな余裕あるはずないだろうっ!お前に何がわかるのかっ!と叱られそうです。
それは本当にその通りなので何も言えないのですが、起こってしまっている現状はどうすることもできません。
ましてや、この記事では何も解決しません。
認知症という機能がなぜ人には備わっているのか?
そんな疑問を自分自身で考えてみる事や興味を持って勉強してみる事は良い事だと思います。
”死テラシーブログ”