最期の言葉は無くていいのかもしれない
最期の言葉、別れの言葉は絶対に必要なもので、その後の遺族の生き方に大きな影響力を持っている。
だからとても大切なものなのだ!
ずっとそんなふうに思っていたのですが、今回実父の死によって意識に変化がありました。
認知症になってボンヤリして最期を迎えるのもアリかもな~なんて思えるのです。
なぜかというと、
これで最期です!
最期の言葉はこの言葉です!
ありがとう!
後は頼んだぞっ!
と最期の言葉がハッキリしていると、死というラインがハッキリしていて遺族にも死という辛い現実を突き付けられる事になります。
認知症は時間が経てば経つほど、容体が悪くなるにつれて、頭もわからなくなる、生きる事を諦めるわけでもなく、死へ急ぐわけでもない、要するにワケがわからなくなって死までの時間を過ごすのでしょう。
しかし、これは個人差があります。
身体はしっかり、頭はボケボケ。
身体はガタガタ、頭はしっかり。
身体と頭の老化のバランスにもよる所も当然ありますので、良い事ばかりではありませんし、現実では大変な部分の方が大きいでしょう。
認知症のメカニズムや対処法などはここの記事ではスルーしますが、老いに認知症がどうして必要なのかという事を考えてみる事には価値はあると思っています。
カンタンに言うと本人や遺族が受ける、死への緩衝材とでもいうものでしょう。
夜間大声でしゃべりだしたり、自宅から数10キロ離れた警察署から連絡が来ることもあるでしょう。
もう十分生きたのだから、そろそろ逝ってくれてもいいんじゃないのかい?
なんて余裕な言葉が出てくる事は悪い事ではないようにも感じます。
いざその時が来たのならば、ホッとする気持ちも当然あるでしょう。
むりやり認知症を肯定的に見るとするならば。
認知症とは本人の死に対して遺族が必要以上に悲しまないように、死に対して遺族がホッとするようなことができるためにあるのかもしれないと考える事もできると思います。
やっと死んでくれた、お互い解放された~。
その方が本人の為でもあるように感じる事は正直あると思います。