なぜヒトは認知症という機能を持ち合わせているのか?

介護・福祉

人は何回か死ぬ?

自分の経験談で恐縮なのですが、もしかしたら誰かの何かの役に立つかもしれないので記しておきます。

そうです、人は何回か死ぬんです。

ゾンビじゃないんだから何回も死なないでしょうよ、そりゃぁそうなのですが実体験としてそのように感じた事は事実なのでご紹介します。

うちの父の場合です。

65歳で前立腺がんと診断されます。

癌というと印象としては死に直結するものですよね。

そうか、親父はもう死ぬのか~なんて遠い過去に訪れるであろう、”死”を連想して覚悟します。

「死を覚悟する」

これが1回目の死

75歳で工事現場の過酷な肉体仕事を辞めてから認知症の症状が現れはじめて、介護認定の要介護2に認定されます。

仕事を辞めてからは認知症が急速に進みました。

子供である私の事を忘れます。

思い出話もできなくなります。

そもそも会話をしなくなりました。

「家族を忘れる」

これが2回目の死

病も認知症もどんどん進み、最終的には言葉も発さなくなります。そろそろ車椅子が必要だな~なんてタイミングですぐに寝たきりになり、意志の疎通もイエス・ノー程度しかできなくなります。

「反応がほとんどなくなる」

これが3回目の死

そして、誤嚥性肺炎になり、足が凍傷になり、生命活動停止、心肺停止。

「本当の死」

これが4回目の死

4回目で本当の死が訪れると考えた場合、遺族としてはどうでしょう?

精神的なショックが4回も訪れたならばもう慣れっこでしょう。

段階を経て階段を上るように一歩一歩死へ向かう事になります。

心の準備はとっくのとうに出来上がっているので、ようやくその時がやってきたなという安堵感のような心境になりました。

実際我が家の場合では家族皆で、泣き崩れるような事は無かったです。

寝たきりでオムツを付けた状態で、言葉も発しない状況が早めに終わってよかったね、

と心底思っていたからです。

当然、この家族で幸せだったという認識が家族の中で共有している事がいちばんの安堵感を産み出しているのは絶対条件になります。

しかしこれが、突然の癌ステージ4発覚、手術をする前に容体が悪化してそのまま死んでしまったら喪失感はとても大きく精神的なダメージは大きくなることでしょう。

心の準備期間が少なければ少ないほど喪失感は大きいものになります。

叔父さんがそうでした。

人は必ず死にますが、死に近づいてはいるものの、存在自体はそこにある。

家族の事を覚えていなくても周囲の家族からしてみたら、本人がそこにいる事自体は一安心することでしょう。

意識が通じなくても、本人がそこにいれば、本当の死まではワンクッションもツークッションもあるように感じます。

もし、認知症にならなかった場合、痛いよー怖いよー悲しいよーと嘆く本人をなだめる事や家族を気遣って気丈に振舞う姿を見るのも、とても辛いものがあるでしょう。

認知症のまま痛い痛いと言う事もあるのでしょうが、本当に痛いと感じているのかどうかはわかりません。(実際は痛いのでしょうが…)

認知症になったのならば、どこまで本当の事がわかっているのだろうか?

というボンヤリした状態に家族側は救われる事はあると思います。

ホップステップジャンプといったように人は何回かに分けて、死へ向かってゆくのかもしれません。

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