周囲が病むことになるよ!
そもそも、人間には寿命があります。
さまざまな臓器や脳、血管、神経…細胞のコピーエラーによって蓄積した障害のために、その機能は衰えて、やがて機能しなくなるだけの事です。
それが寿命です。病気ではありません。
死が近づくにつれて、もういいよ、十分生きたよと身体が訴えかけているのです。
その寿命年齢は人それぞれです。40、50歳代で訪れる方もいれば、100歳以降の方もいます。
産まれてすぐに訪れる方もいるそうです。
小児がんなどがそうです。
小児がんというものは、各機能の老化が著しく早く進行してしまう事によるそうなので、小児がんも老化で起こるというものなのだそうです。
(今回は小児がんについては言及しません、高齢の終末期医療についてのみ扱います)
死にゆく本人も、周囲を取り巻く人々も死へのリテラシーが足りないと、とても悲しい最期になりかねません。
それは、
意識があるうちに、感謝や思い出、人生の後悔やこれからの事など話ができないまま別れが訪れる事になります。
体が死へと向かっているのに、お医者様が付いているからがんばってと、ヘタに延命治療をすると、肉体だけは生存し続けますが、アタマはどんどん衰えてくるでしょう。
アタマだけではなく、心身も共に衰えて倦怠感や痛み、精神的に不安定に陥る事になるでしょう。
当然自宅での介護は難しいと判断されて、病院へ入院することになります。
そうなるとどうなるの?
慣れない病院の環境下でストレスもたまります。
病院なので様々な制限があります。
あんなに優しかったおじいちゃんが別人のようになって怒鳴り散らす!
あんなに賢明だったおばあちゃんが別人のようになって常にボンヤリ上の空!
認知症が進んで、本人や家族の名前も顔も理解できない…
そんなふうになってしまっては、最期のお別れどころではありません。
そんな延命医療による生活が10年も20年も何年も続いたとしたのならどうでしょう?
周囲の人間からは
早く死んでくれないかなぁ~
などどいう感情になる事は十分に想像できます。
元気な頃は想像もしていなかったことが、最期の最後に訪れる。
まさかおじいちゃん・おばあちゃんに早く死んでくれないかな…
なんて感情が芽生えるなんて…
そうなってくると、自責の念にも発展してしまい、自分自身が精神不安になってしまう事もありますよね。
そのような事は、だれも望んでいません。
だから、最期の話し合いが必要なのです。
ここでは、延命治療が必ずしも悪だと言っている訳ではありません。
もちろん、本人や家族が医療を信頼して、お医者様を信用して一日でも長く生きれるように全員一丸となって死に挑むのなら全く持って素晴らしい事です。
病院で幸せな死に方ができる方も多い事でしょう。
しかし、病院での治療漬け、薬漬けで体はボロボロ、アタマは痴呆。
そのような方が多い事も事実です。
一日でも一分でも長く生きたのなら、本人は何がしたいのか?
周囲の家族はどうしてあげたいのか?
肺と心臓が動いているだけの高齢者をいつまで治療し続けるのか?
そのような事を、確認する必要があります。
そして、選ぶのは自由です。
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