生きるも死ぬも対等に
まず、死への考えは人それぞれあります。そのそれぞれの考えを尊重して、本人が納得できる死を与えてあげることも必要なのではないでしょうか。
そこには、対等な関係でなくてはならないと思います。
どちらかが死を与えて、どちらかが死を受け入れるのではなくて、両者対等でお互いの価値観や思考を尊重し合えることで、信頼関係が築かれる。
これらを通して安楽死や尊厳死が決行できたらいい事のように思います。
口先だけで強く生きましょうとか、政府、自治体、NPO団体でいろいろな支援をしていますという選択肢のほかに、尊厳死、安楽死も含めて生と死を考えていかないと、苦しむ人がどんどん増えて、悲しい自殺や無差別殺人事件が今後も発生していくでしょう。
過度な延命治療も必要なものという時代は過ぎていると思います。医療業界のお金の流れの実態はわからないのですが、おそらく政治団体や病院理事会、健康保険料など様々な組織や仕組みがが絡み合って利権を得るための資金元に患者の延命治療に繋がっているという部分も少なからずあろうかと思います。
もちろん倫理的なこともありますね。
人口減少で生産人口は労働力の高齢化によって支えられて、死ぬまで働くことになりそうですね。
死ぬギリギリのところまで税金を絞り取り上げられ、国側からしてみればギリギリのところで死んでもらえれば、ムダな医療費や介護保険料を支払わずに済むことでしょう。
これはこれで、よくできた考え方だと感心してしまいます。
ここでは政治的な是非には言及しませんが、長生きするということは痛みや倦怠感、精神疾患などと付き合っていかなければならず、とても楽しい老後労働生活になることは想像できませんよね。
どうしたらよいか
個人ではハッキリ言って何もできないと思います。できることとしては、自分の思考を変えて自分自身納得のいく形で、結局は生きていくことになります。
もちろん自らの命を絶つという選択肢もあります。
年齢を重ねれば何かしらの重大な病気にかかります、そこをチャンスと捉え延命治療をしなければ死ぬ事ができますよね。
意識も体力も無くなって、言葉も発せなくなった状態だと自分の尊厳を無視されて、電気とポンプ、管や配線で無理やり生かされます。
人間はアリとキリギリスのお話にあるように、問題意識はあったとしても問題が目の前に来ないと行動しない生き物ですよね。
自身の人生を振り返っても同じようなことが言えます。
今後時代がどのように変化して、法整備がどこまで進んで行くのかは誰にもわかりませんが、個人でできることは、
死に方を考えること
だと思います
国や時代のせいにして何も考えないで、辛い日々を嘆いてばかりではキリギリスと一緒です。動物は自殺をすることは無いなんてことを聞いたことがありますが、そこの議論は今は置いておいて
せっかく自殺を選択できる人間に産まれてきたのだから
自死を選択肢の一つ
として生きる
なんて事は人間の特別な能力なのではないでしょうか
お分かりかと思いますが、死にたい人はどんどん死にましょうとは言っていません
自分のゴールをあらかじめ決めておいて、ゴールまでどのように歩いていくかを漠然とでも考えておいた方が目の前のつまらない日々が少しは感慨深い一日になるのではないでしょうか。
だって僕100年生きたくないですから
皆様はどのようにお考えでしょうか?
お疲れさまでした、今回はここまでです。
こんなところまで読んでくださって本当にうれしいです。
皆さんに良い死が訪れますように願っております
”死テラシーブログ”
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