どうもこんにちは、
”死テラシーブログ”でございます。
今回は前回の続きになります。
前回では劇場版バイオレットエヴァーガーデンから遺書という描写を読み取って、亡くなった人から譲り受けた命のメッセージ、今後も続いていく人生において、生きるヒントが隠されているモノだという事を考えてみました。
京都アニメーションの事件や、命、作品、遺された側の人々が生きていくための、みちしるべについて考えます。
また、アニメ制作の大変な作業を素人目線で感じるためにも、
映画 「AKIRA」 原作・監督 大友克洋
TVアニメ「映像件には手を出すな!」
原作 大堂澄瞳 監督 湯浅政明×スタジオ(サイエンスSARU)
という作品にも素人ながら少し触れたいと思います。
ネタバラシはありません。
注・私はド素人の為アニメ制作についての深い考察はできません、あくまでも遺書や遺作についての記事になりますので、興味のない方はここで離脱していただけることをお勧めします。
結論を申し上げますと。
死=無
死=終
死=悲
という事は、絶対にないという事です。
永遠に語り継がれ、人々に勇気や希望、感動を与え、強く生きる、生きるヒントを教えてくれる、
死=遺書・遺物は遺された人にとっての
生きるための
「みちしるべ」
になりうるものなのですね。
遺された人々が路頭に迷わないように、強く生きてゆけるようにと、亡くなった方々は強く願うのです。
このような描写は劇場版バイオレットエヴァーガーデンでも出てきます。
映画だけの話ではありません。今日もたくさんの人が亡くなる事でしょう、亡くなる本人一人一人が遺した人を想っている事は間違いありません。
遺した人を心配するのですね、これは亡くなった時の年齢などは関係ありません。
例えば、産まれたばかりの赤ちゃんが、すぐに死んでしまっても亡くなった赤ちゃんは遺したお母さんを心配することでしょう。
科学的根拠は全くありませんが、きっと心配するはずだと願っています。
だってお母さんの辛く悲しい気持ちを亡くなった赤ちゃんが反応しないはずがないからです。
お母さんの気持ちに反応しているのであれば、お母さんを勇気づけようとすることは想像できるからです。
人生を終えた故人の思いはただ一つ
遺した人を心配する
その一点に尽きるものだと思います。
では、想いを目に見える形にすることで、耳に残すことで、遺された人を勇気づけられるという事を考えてみたいと思います。
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