命は誰のためにある? ある軍人一家の話(涙が止まらない)

歴史

まとめ・Q命は誰のものなのだ? A…

このブログでは、戦争の悲惨さや愚かさは追及しません。

命や死から何を学んでどのように思考して行動するのか、今後の自分自身の生き方について考えて行きます。

今回は戦争でのある一家のお話をさせていただきました。

戦争ではお国のために、天皇のために、家族のために、と兵隊が死んでいきました。

一人の教官は特攻兵と家族のために死んでいきました。

妻は教官である夫のために死んでいきました。

二人の幼子はお母さんとずっと一緒にいたいために死んだ事と思います。

そして残ったのは何なのだ?

いったい何が残ったのだろう?

命は誰のためにあるのか?

命は何のために使うのか?

?マークが止まりません。

それはきっと

命は

捧げるモノでもなくて、使うモノでもなくて、

命は自分のモノだと信じて誰かのために何かを提供するもの、

なのかもしれない。

冒頭でも述べましたが、自分のための命ということを認識して、今の自分に何ができるのか?何ができないのか?を精査してみてもらいたいのです。

捧げるモノは命じゃない、絶対に命ではない、捧げるモノは、

自身の存在なのだ!

何もしなくてもいい、そこにいるだけでいいのです。

生きて、自身の存在を他の誰かに捧げる事ができる。

生きていれば、誰かのためになることがあるかもしれない。

死んで誰かのためになったとしても、存在していなければそこで打ち止めです。

しかし、存在があったところで、何も成しえないことも多々あるのは確かです。

このブログがまさにそうです。そこに存在しているが何も成しえていないのです。

存在さえしていれば今は全然ダメダメでも、後に誰かを喜ばせる事ができるかもしれない、困っている人を助けられるかもしれない、可能性は少なからずあるのです。

家族が部屋に引きこもっているが、そこに存在しているだけでも誰かの心のよりどころになることもあるのです。

そこにいるだけで、そこに存在しているだけでなにかを成しえているのです。

その存在に救われる人もいるかもしれません。

誰かのためにと、死ぬ事によって存在を消してしまっては何かを成しえる可能性は消えて無くなってしまいます。

今回の記事に登場する方々は、時代や環境が今現在とは全く異なっています。

ですから、比べる事はしません。

彼らには生きるという選択肢が半強制的に奪われていた時代と境遇だったからです。

彼らの行動を批判したり、疑問視したりすることはナンセンスです。

彼らの死を、実際の出来事を学んで糧にして、現代の私達が今後どのように生きていけば良いのか、考察する事が大切です。

では最後にハッキリさせましょう。

Q・命はいったい誰のモノなのか?

A・命は自分のモノ!生きて誰かのために存在を捧げるモノ!

これがこのブログの今現在の答えです。

みなさんはどのように感じるのでしょうか?

”死テラシーブログ”

追記…

今回の記事は若くて健康な命をメインに進行してまいりました。しっかり生き続けていても、どうしても誰かのためにならなくなる時が必ず訪れる事になります。それは老齢の寿命です。老齢の寿命には個人差がありますので、あと何年生きるのかどうかは知りませんが、寿命までしっかり生き抜いて、寿命がきたらすんなり死んでいって欲しいと思っております。寿命を乗り越えて何が何でも生きましょうというメッセージではありません。

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