みなさんこんにちは、
どこぞの共同体・コミュニティーにも属さない、存在自体がゼロブログ
”死テラシーブログ”
でございます。
存在感はゼロなので、何も気にせず気の向くままに突き進みます。
今回は日本史の歴史のマンガを読んでいたら
惣村(そうそん) 惣(そう) なるものと出会いました。
社会の時間で聞いたことはあるかと思います。
惣村という共同体・コミュニティーが鎌倉時代~室町時代に存在していたという事を学んだのですが、
これは、日本における自殺文化?との関係が深いのではないのか?
などと、何の根拠もないただただ思ったことを綴ってまいります。
日本人は自殺が多いそうなので、そこの原点なのかもしれないと勝手に考察してみます。
注・全くのド素人が歴史のマンガを読んで思いついたことを述べますので、本気にしないでください。ただのバカの暇人の独り言です。
さて、みなさんは暗黙の了解とか忖度とか半強制とかいう言葉にどのような反応を示しますか?
良いイメージを持っている人は少ないと感じますよね?
真実とは異なっている事や、筋が通っていない事柄でも、暗黙の了解だから・半強制だからしきたりだから、仕方がないと諦める人ですか?
それとも、絶対に許せない!徹底的に反対してやる、今の組織を破壊して新しい制度を構築してやるぞと抵抗感をむき出しにしますか?
まぁそれは人それぞれでいいし、正解や不正解はありません。
あいまいにしてやり過ごす?
白か黒かを常にはっきりさせたがる人は面倒くさいヤツと思う場面もあるので、あいまいにしてやり過ごす人は、グレーゾーンを潤滑油にしてコニュニティーを円滑に維持するような良い側面もあります。
暗黙の了解や忖度、半強制などは問題をスムースに迅速に乗り越えるためには便利なツールにもなり得ます。
しかし、そこにあるコミュニティーの中では風見鶏のような不確かな正解に堕ちる場合もあります。
権力者がその不確かな正解を操りやすいという事も当然ありますが、
それとは違った風見鶏がいます、多数派による、
そこにある空気感が正解となります。
規則やルール、モラルではなくて空気感が物事を方向付ける場合が多々あります。
正しい事をやっているのに、もしくは悪い事は何もやっていないのに皆から白い目で見られる場合があります。
空気感がその場を支配しているから、ルールやモラルは関係ないのです。
そんな空気感は、いわれのないイジメやウワサ、集団リンチ事件に発展する場合もあります。
これは肌感覚なのですが、空気感が物事を方向付けるのは人間、特に日本人に強く表れるような気がします。
どうして日本人は自分の意見を前面に押し出さず、他人の顔色をうかがい、違和感というだけの異物を排除するようになり、少数意見の派閥を抑え込む、少数派は自分自身の気持ちを塞ぎむのでしょうか。
少数派は理解者がいなくなると、行き場を失ったネガティブな思いは自分で処理しなくてはなりません。
自殺を選択する人もいることでしょう。
何でそんなことになるのかという事を考えて行きたいと思います。
結論です。
日本の中世(鎌倉・室町時代)で見られた
惣村や一味神水(いちみしんすい・後に詳しく述べます)
という歴史や風習をみてみると日本人は自分を塞ぎこんでコミュニティーを守る為に自殺をする考え方をする人が現れるように感じられます。
空気感はモンスターなので、いち個人ではどうにもなりません
だから、今スグにできる対策としては
歴史を知り死生観を感を磨く事になります。
生きるも死ぬも最終的には自分で決める事だからです。
もちろん日本人に自殺が多いのは、惣村や一味神水だけが理由ではないのですが、日本人と自殺の関係性を惣村や一味神水といった観点から見てみましょう。
惣村と一味神水ってなんなの?