まとめ
ダラダラしてきたので、もうやめます。
結局なにが言いたいのかというと。
生きているとしんどい時ってありますよね。
特に朝!
そんな時に、
いままでたまたま生きているが、産まれた場所や時代によっては死んでいたかもよ?
超奇跡的な、生命誕生なんてことを想像してみてみたら?
生命や人生などはオマケのようなモノなのだから、ゆるく生きたらいいのだよ。
死に時が来たらしっかり死に切る。
生きている事はとても不安定で、奇跡的なこと、そして死というものはとても安定していて、いつか必ず生命誕生以前のアンモニアやアミノ酸の世界に戻るのである。(私見)
そのように考えると、小さなことがバカバカしくも感じられます。
一生懸命生きていてもいいし、ゆるゆるで生きていてもいい。
ヒトは最終的には必ず死にます。
という事は誰でも知っている事でしょうが、少し視点を変えてみた場合、死というものはもともとの安定した場所に帰ることなのではないかという解釈をしてみました。
水が勾配を下るように、安定した状態や場所を目指してヒトは死へ向かってゆくのでしょう。
行きつくところは安定している場所と自然なカタチなのだと思います。
そもそも生命誕生は奇跡を繰り返して起こったもので、生命誕生は起こらなかったことの方が安定していると考えた場合、生命は原始のスープ以前の”無”というカタチに戻って行くのが自然なことだと思います。
今こうして不満を抱えながらも生きていますが、それは奇跡的な事であり不安定な事でもあります。
実際不満や不安を抱えている人は多いと思いますが、どうですか?不安定な状況だと思いませんか?
健康や金銭的な事、恋愛や人間関係…
不安定な事ばかりです。
しかし、ヒトや生命はもともと”無”から出発しています。
だから、死んだ後は安定してる”無”に帰るだけなのです。
原始のスープの世界には”無”メタンやらアンモニアやらアミノ酸やら塩酸塩基などなどが存在していましたが、健康や恋愛の悩みなどはあろうはずがありません。
そこに戻って安定したカタチにおさまるのだと考えれば、死への恐怖感は緩衝されて、今まで以上に生きやすくなるのではないでしょうか?
死とは、もとのカタチに還るだけ
宇宙や地球の運動によって、ちょこっとの隙間にできた時間と空間で生きさせてもらっているだけと考えてみれば、人生や生命がなんぼのモノなのか、自分で考えてみるのもいいんじゃないでしょうか。
”死テラシーブログ”