まとめ・誰だってカッコよく死ねる!
カッコいい死に方について考えてみました。
みなさんどうでしょう?
今の自分はかっこいいのかどうか意識して生きていますか?
シミやシワ、薄毛、お腹の脂肪やファッションセンス等といったことでは無いですよっ!
何かの目的をもって辛くとも生きる、苦労しながらでも生きる、カッコ悪くても生きる、成果が出なくとも前に進む。
出来ていますか?
はい、皆さん出来ていると思いますよ。
それは意識の問題で、今のあなた自身無意識のうちに行っているのです。
生きる事は大変ですが、世の不条理の中を生きていること自体
カッコいいのです。
しかも、進行中です。
しかし、自分がかっこいい人間なのだと認識していないと、もったいない事があります。
死に直面した時にうろたえてしまうのです。
今までカッコよく生きて来たのに気づかずにいると、死の間際には死にたくないよ~怖いよ~と言って最期を迎えたのならもったいないですよね~。
だから、そのような状況になった時は、しっかり死を受け入れて受け止めて、しっかりカッコよく逝きたいですよね。
苦労を乗り越えて病気と辛くとも付き合い、少しの残された時間で何かをやり遂げる姿にはカッコよさがある。
家族のためにと何が何でも生きる事自体を目的とすることももちろんあるだろう。
医療器具に繋がれたまま意識もなく数年間生きた後にやってくる死がかっこいいのかどうかは周囲の人間が決める事です。
病人本人が家族を悲しませないために一分一秒でも長く心臓と肺を動かし続けるのだ!
このように、何のために生きるのかという強い意思が確認されているのであれば、きっとそれはかっこいい死に方なのかもしれないが、死生観について本人の意思の確認がなされてないと悲惨な結果になってしまいます。
本人の死生観を確認せずに意識不明の状態になってしまい、フルコード(電極や管に繋がれ、両手を縛られるような延命措置)状態になります。
無残だとか、かわいそうだとか、あんな風にはなりたくない、
といったようなカッコ悪い死に方、というよりは悲しい死に方になってしまうのではないでしょうか?
本人がどのように生きて死んでいきたかったのかは生前意識があるうちに、意思の確認をしていないと永遠にわかりません。
同じ医療器具に繋がれた意識の無い人間の死、
条件は同じなのに家族や周囲の人と死生観が共有されている場合はかっこいい死に方で、死生観が共有なされていない場合はカッコ悪い死に方になることはあると思います。
本人親族間で死生観に対する意思の共有が大切で、周囲の理解があって何かの目的に向かって進むことができるならば、その人の死はかっこいいとなります。
遺された時間、遺された体力で何ができるのか?
何を遺せるのか?
あの人はカッコいい死に方だったなと周囲の人間から思われるような死に方を意識している人はかっこいい人なのです。
それがどのような死に方でもです。
”死テラシーブログ”
最後に、カッコいい言葉を一つご紹介します。
がん患者のお父さんが遺した言葉です。
でもね、これからが最期の仕事だと僕は思うんだ。
子供たちに自分が死んでゆくところを見せないとならない。
人は、こうやって死んでいくんだぞって。
引用・がんを抱えて、自分らしく生きたい 著・西智弘