みなさんこんにちは、ギリギリ存続しているブログ
”死テラシーブログ” でございます。
今回は、神奈川県の横浜でやっていた、交通事故による被害者の展示会
いのちのメッセージ展
に行ってきました。
答えを先に言ってしまいますと、この展示会
休みでした 😞
休みでしたが、数人の事故事象の紹介と一緒に、遺品となる生前履いていた本人の靴を見る事が出来ました。
また、お亡くなりになった方々の等身大パネル(メッセンジャーと呼ばれています)も展示されていて、これには乳児くらいのパネルもありまして、心がきゅっと引き締まる思いをしました。
遺物、遺品が目の前にあると、無言による無念や怒りがひしひしと伝わってくる、生きていた人間が死んでしまう事、突然目の前からいなくなってしまうことがリアルに感じる事ができます。
ハッキリ言って言葉が出ない、自分が生きている事が奇跡に感じるというか後ろめたいというか、今ここに立っている事が偶然のような気がしてならないのです。
だって、この方々は偶然や運転者の良識の甘さにより
いのちを落としているからです。
交通事故の運転手には、もちろん過失があります。ルール違反をしている人もたくさんいます。
これは決して許される事ではありませんし、今後一つでも少なくなることを望んでいます。
ハンドルを握る人は肝に銘じておかなくてはいけません。
しかし、交通事故や事故全般に言える事は
被害者は
偶然そこにいただけ
という事で、死んでしまう事があるという事です。
たまたま、その道をその時間に通行していただけ。
たまたま、そこに立っていただけ。
たまたま、3列目に並んでいただけ。
たまたまの偶然により生と死の線が引かれることもあります。
偶然によって命を落とすことがあり得るのです。
また、歩行者が交通ルールをしっかり守っていても、車に轢かれてしまう事がある道路事情もあります。
いくら悔やんでも、愛する人は帰ってきません。
結論からいますと
交通事故での死亡事故防止は
個人1人の注意力では限界がある
という事です。
だから、最悪の事態を想定した心の準備と、お子様には車の怖さやルールを教える事は大切な事です。
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