「生きて」は抽象的、「死にたい」は具体的
どうして想いは届かないのか、バカなりに一所懸命に考えてみました。
生きて欲しいという思いは、ほとんどが抽象的なのだと思います。
では、抽象的って何?という事で抽象的を調べてみます。
抽象的とは
1いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま。
2頭の中だけで考えていて、具体性に欠けるさま。
引用・goo辞書 デジタル大辞泉
「生きて」
なんで?
死んだら全てが終わる、
生きていれば何かいいことが起る、
死んだら周囲の人が悲しむ、
死んだら警察、消防、など関係のない人に迷惑がかかる、
世界にはもっと悲惨な人がいる、
死んだら地獄に落ちる…
いろいろありますね。
まさに、抽象的なのだと思います。
「いくつかの事物に共通なものを抜き出して、それを一般化して考えるさま」
「頭の中だけで考えていて、具体性に欠けるさま」
まさにこのブログのようです(;’∀’)
生きて欲しいという願いはモヤがかかっていて、ハッキリとした輪郭が見えないから、伝わらないのでしょう。
何となく丸い感じのものなのか?
明るい感じのものなのか?
くらいの認識でしか伝わらないのだと思います。 …この表現も抽象的(;’∀’)
”周囲のみんなが悲しむ”のは具体的ではないのか?というと具体的なのですが、
軽いのです。
「死にたい」と天秤にかけた場合、話にならないくらい死にたいが重たいのです。
ましてや生きる事に拒否感を持ち合わせている人には、そもそも聞く耳は持っていません。
生きて欲しいという理由がぼんやりしているし軽いから、説得力に欠けるのですね。
そこに、「死にたい」が現れます。
「死にたい」はかなり具体的で強力な武器を持っています。
具体的を調べてみました。
具体的とは
はっきりとした実体を備えているさま。個々の事物に即しているさま。
引用・goo辞書 デジタル大辞泉
「死にたい」なんで?
悪質ないじめを受けている、
病に悩まされている、
虐待を受けている、
経済的に生活ができない、
仕事が無くなった、
受験に失敗した、
いろいろありますね。
「はっきりとした実体を備えているさま。個々の事物に即しているさま」
物事に即しているさま、なので問題がいつもそばにあるのですね。
それぞれ、具体的で問題を取り除かないと解決はできない事です。
しかもその問題はカンタンには解決できそうにもありませんし、何回も解決しようとして努力した結果、
再度ダメだったのです。
死ぬほどの努力を重ねても尚、
ダメだってのです。
だから
「死にたい」のです。
ただ単に、何となく死にたいのではなく、何回も何回も打開策を練って苦労しているのです。
努力が足りないから、なんて言葉は全く効果はありません。
そんな、重装備の「死にたい」に対して、「生きて」くらいの軽い攻撃では「死にたい」を倒す事などできるはずもありません。
Q・どうしたらいいのでしょう?
A・どうにもなりません
が現実ですが、それではこの記事も終わってしまうので、まだまだ延ばしてまいりましょう。


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