まとめ・死んだって生きている
生死と存在価値について述べてきましたが、いかがでしたか?
最後に決着をつけるつもりはありません。
生も死もどちらにも価値はあります。
意識が無くても生きる事で存在自体に価値がある。
もっともなご意見です。賛同する人は多い事でしょう。
異論はありません。
その一歩先を考えると、
死んで亡くなったとしても、そこに存在していなくても、故人の遺品、想い出、遺伝子、親から譲り受けた自分の身体…
感謝できる部分はたくさんあります。
生きていても死んでしまってもどちらも同じことです。
生きているから、存在しているからこそ価値がある?
では逆に考えた場合、
死んだら価値はないのか?
そんなことはありません。
死に対して価値を見出せない貧しい生き方をしてきたからそのように感じるのではないでしょうか?
悔いが残るような生き方をしてきたのではないですか?
亡くなった本人と遺された側、双方向で意思を共有できていないからそのように感じるのであって、意思が一方通行だから残念に思ってしまうことになってしまう。
価値は自分で見出すものです。
死や植物状態の家族、今後の事…その状況に価値を見出せるかどうかが今後の生き方の分かれ道になります。
存在価値や現状に価値を見出すためには、日頃からの意思の共有が不可欠になります。
だからどのような事がいつ起きてもいいように、皆が生きているうちに、意思の共有、
ありがとう、感謝!
をお互いに共有したらいいのです。
夫や子供や友達、お店でレジを打っている店員さん、トラックの運転手さん…
誰にだって感謝を忘れずに生きればいいのですよ。
死んでからの感謝では遅いのです。
意識不明の重体になってからでは遅いのです。
死んでからでは遅いのです。
後悔をしないためにも、常日頃から目に見えるモノや人に感謝の気持ちを忘れずに生きていれば、その人に急な死が訪れようが、なんとか生き延びようが、
それらの生や死に、
価値は見出せるのではないでしょうか?
植物状態の人間の価値を見出すのはあなたなのですから。
”死テラシーブログ”
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