価値は自分で見出すもの!
アドラー心理学では、世界も人生もシンプルだって言ってたでしょ?
だったら死生観だってシンプルなのですよ!
先ほどの答えになります。
Q・死に価値観を求めた場合、どこに重点を置くべきか?
A・死は避けられないから、
最終的に”死”を受け入れるしかない事を、
受け入れる事に尽きます。
???…
はいすいません、シンプルに説明しますね。
人はいつか死にます、これは平等です。
だから死を認めることによって、生きる事が楽に感じるのです。
死を嘆く前に死を受け入れる事ができれば、人生は楽に感じます。
辛い死別体験をしたとしても、その悲しみを乗り越えて強くなれる可能性を秘めています。
辛い出来事の後に自分自身が強くなれるかもしれないという心構えができる考え方には
価値があります。
以上!
???
これは究極的な考えのほんの一部です、死の価値などはもっともっとたくさんあります。
生物学や遺伝子の分野から見てみても、死という現システムがないと生物は進化していないのです。
過去記事です。お暇な方いらしてください!
では、現実的に見てみましょう。
前項の例にもあったように母親が交通事故で意識不明の重体になったことを想定してみましょう。
事故直後はもちろん生きていて欲しい、生きている事が何よりの救いになるということは容易に想像してしまいます。
これを否定することはありません。
心から生きていて良かったと思います。
母親の存在自体が家族の心の支えになることでしょう。
しかし、何事もいい事ばかりではありません。
辛いけれども、デメリットだけをわざと意地悪な感じで抽出してみますよ…
注・わざとイジワルに書きますので、本気にしないでくださいね
入院にかかる費用、病院へ訪れる手間と時間、旅行にはいけくなる、これから先どうなるのだろうという不安…
その後、卒業や就職、結婚、出産、マイホーム…
その都度母親に報告することになります。
時間を重ねていくにしたがって母親本人も歳をとってゆく、自分自身も歳をとってゆく、事故から数十年…
死はいつやってくるのだろうか?
意識は戻るのだろうか?
意識が戻った後の生活はどうなるのだろうか?
ぼくの事を覚えているのだろうか?
もしあの時の事故で母親が一瞬で死んでいたら…今頃自分は…父親は…
最終的に死んでしまうのだから、今までの数十年間にはどのような意味があったのだろうか?
無駄な時間だったのか?
そんなふうに思うことも時にはあるでしょう。
注・大切な家族の事をそんなふうに思う訳ないだろうっ!とお怒りになる方がいる事も十分承知してこの記事を書いています。でも、安心してくだい。お怒りになるような方は植物状態の家族が自身の生きがいになりお互いが支え合っている証拠です。再度の確認ですが生死の価値観をわかりやすくするためにワザとイジワルな描写をしておりますのでご了承ください。
今回の例は、自分が若い段階での母親の交通事故という想定で語りましたが、これが90、100歳の高齢者でしたらどうでしょう?
やっと死んでくれた!
死んでくれてホッとした!
なんて心の声はあちらこちらで聞こえてくるでしょう。
もちろん90,100歳の高齢者の存在自体が家族の支えになっている事もあります。
不便で不安な状況で生き続ける事が良い事なのか、死が悪い事なのか、
その価値は結局自分で見出すしか無いのです。
死に対しての心構えができている事には価値がある。
死は必ずやってくるので、遺族側が死を認める事に価値を見出し強く生きていくことができたのならば、事故に遭った本人も安心できるものと考えております。
コメント