死の価値はどこにある?
「嫌われる勇気」という本にはこのように書いてありました。
自分の存在価値を実感するというテーマからの流れから、
Q・他人の役に立てて初めて自分の価値を実感できるのならば、産まれたばかりの赤ん坊や寝たきりの老人、痴呆症の老人、病人たちは生きる価値すらない、他人の役に立てない人間に価値は無いのではないか?
という問いに対して、アドラー心理学的答えは、
A・他人への対象を「行為」で考えるからいけないのであって、「存在」で考えるべきなのです。行為=何をしたかでは無くて、そこに存在していること自体に感謝することが抜け落ちています。赤ん坊でも老人でも、そこに存在しているだけで救われる人、穏やかになる人、心の支えになる人、様々です。だから、どのような人でもそこにいるだけで価値があるのです。
という答えでした。
本の中では、交通事故で母親が意識不明になった場合や、引きこもりの家族の存在だって周囲の人間の心の支えになっているといったような例を挙げて述べられています。
当の本人は何もしていないが、その存在自体が周囲の人間に良い影響を与えているのです。
その存在自体に感謝する事ができるならば、何もなしえていないような人間にも価値を見出せるのです。
この現状をどのように捉えるのかで、今後の生き方が変わってくるのです。
といった内容になります。
おぉ~さすがアドラーさん、説得力あります。
反論というものでは無いのですが、”死テラシーブログ”ではこの先を考えてみたいと思います。
この本では、生きてその存在自体が勇気を与えるところで終わっていますが、その存在もいつかは必ず存在することができなくなります。
要するに最後には
死ぬのです。
だから、このブログでは死でさえも価値がある物だと言い切ってしまいましょう。
死んだって価値がある、どこにある?
どこに重点を置けばいいのか?
存在に価値があるのか?思い出に価値があるのか?生命自体に価値があるのか?
重点はズバリ!
次の項へ持ち越しましょう。


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