死にたい人を応援する・安楽死

尊厳死 安楽死

生きる思考と死ぬ思考は同じもの

生を考えることは死を考えることなんて言いますが、生きることも死ぬことも同じ考え方にあてはまるような気がします。

死ぬのが怖い~生きるのが怖い

死にたい~生きたい

死にたいと強く思う人は、生きる意味を模索している人だと思います。常日頃から生きる意味を考えていて自分が意味のない存在だという結論を出した人もしくは、生きる意味がわからないという人なんですよね。

生きる意味を考える思考のスタート地点は生きるという思いがあるところから始まっていますので、生きることへの執着心や理想も同時に強いものだと思います。

何となくあまり何も考えずに生きている人は、生きる意味なんてさほど感じていないのではないでしょうか?もし生きる意味を訪ねられたら戸惑ってしまう事でしょう。

その点、自殺念慮のある人だったら生きる無意味さや、死ぬ意味についての自分の思いは、哲学者のようにとめどなく出てくるのではないでしょうか?

それだけ生について考えている事だと思います。

まとめ

普段、生や死について、あまり何も気にしないで生きている人は素晴らしい能力の持ち主であると思います。

特別な努力目標を掲げなくてもしっかり生きていることが証拠です。

一生懸命に生きなくても普通に生きることができる事はすばらしいですよね。

危機管理や未来予想の見積もりを低く設定することができるので、なんとかなるさっ!大丈夫だよ!という考えで、辛くも楽しい日々を送っていることでしょう、しかし、

いざその時

”死” 

”死にたいよ”

”殺してよ”

を目の当たりにすると、きっとフリーズしてしまうのではないでしょうか?

フリーズした心を再起動させるには時間がかかるか、もしくはバックアップ不可なんてことになりかねません。

普段から、生きる意味を考えて細かい事にも注意して思い悩んでいる人は、常に死や生を意識しているので、いざその時が来ても心の対応があらかじめできるものだと思います。

生きるために一生懸命な人を応援することは常識的ですが、死ぬために一生懸命な人がいたとしたら周囲は戸惑うでしょう。

死ぬために一生懸命な人を心から応援できるような人は、自分が死ぬことをさほど恐れていない、又は死を受け止めることのできる寛大な人なのだ、なんて考え方もできるのではないでしょうか?

宗教や立場をも超越した

寛大な人

きっと、このような人は死への目標を持ち日々充実していることと思います。

死にたいために努力をした人は結果はどうであろうと、自分の新たな扉を開き新たな景色を見る事になると思います。

努力、目標はどのような条件の人にも行動力思考力を発動させて留まっていたモノを動かし出す力があると思います。

その力の結果が生だろうが死だろうが着地点は人それぞれだが、

留まっているモノを動かす

ただそれだけでも十分意味のあるものだと思います。

生きるために行動している人、死ぬために行動している人、どちらも一生懸命な人です。

留まっているモノを動かそうとしている人を応援できるような人になりたいものです。

安楽死、尊厳死も応援できるものと思います。

皆さんはどのように思うのでしょうか?

 

お疲れさまでした、今回はここまでです。

こんなところまで読んでくださってありがとうございました。

皆様に良い死が訪れますように願っております。

”死テラシーブログ”

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