死にゆく哲学者

哲学

自殺した哲学者 一部紹介

ディオゲネス(前323頃死亡)キュコニス派 心身の苦痛から逃れられるために自殺することは、当然である。呼吸を止めて自殺したと伝えられる。 マジでスカ( ゚Д゚)

クレアンテス(前233300)ゼノンの弟子 病気で医者に二日間断食を命ぜられた時、それを延長して餓死したといわれる。

須原一秀(1940 – 2006)自死と言う哲学を自分自身の身をもって完遂するために、”自死という生き方”といった自死を後世に伝える本を書いて縊死した。ほかに書籍多数あり

藤村操(1886‐1903)哲学者とは言えないのかもしれませんが、17歳で「巌頭之感」というタイトルで樹木の皮を削り取った部分に書かれた遺書を残して、日光の華厳の滝から投身自殺しました。哲学的な悩みか、恋愛的な悩みで自殺したのではないかと推測されている。

凄みを感じる

息を止めて死ぬなんてフツー考えられないよね?まぁ伝えられているという事なんで、弟子たちの言い伝えなのでホントかどうかなんてことは別の話になってきてしまうので、ここでは取り上げませんが、とにかく凄みがありますよね。

このように哲学的に死を選ぶ方々の死は

不思議不気味説得力

があります。

このようなことは一般人でもできそうなものなのかな~?哲学を以てしたら自分の中では、自殺でもなんでも肯定的でポジティブになれるのではないかな?

結局答えは無いのだから死を以て答えるという考えも出てくる気持ちはわかるような気もします。それはそれで、尊い事のように思えるのは私だけでしょうか?

哲学が死を肯定した場合、その思考はキッカケを少しでも別方向に舵を切ってやれば、生きる力にシフトチェンジする可能性を秘めているように思いました。
”考えることは、生きているということを
認識せざるを得ないからである”

 

なんて思ってしまいます。

アレッ?コレッてなんか哲学っぽくない?(*ノωノ)

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