死ねない日本人
現代の日本では、死に直面する機会が少ないと感じます。医療技術の進歩や、栄養のしっかりした食事、健康志向による運動習慣、生活習慣の向上。何より戦争や紛争がありません。
人が死にずらくなっていますので、死を考える機会が少なくなっています。
とにかく死への免疫が少ないと感じます、死への理解、リテラシーが低いのでどのように考えてよいのか、どのように行動したらよいのかわからくなってしまうのだと思います。
誰かが言っていた
“命は尊い”
“人の命は地球より重たい”
誰が言ったことかは知らないけれど、ほとんどの人はなんとなくそうなんだろうなって思い込んでいる人が多いような気がします。
で、あなたは命をどのように考えていますかなんて食い下がったらこっちがヤバいヤツになってしまいますよね
普通の感覚では
別に“命は尊い”でいいんじゃない。
そんなところだろうと思います。
そもそも、死についての関心が低い事だと思います。
日本の神道(日本において一般的に言う神様や神社)では死は汚れ、死者の魂は扱いを怠ると災いを呼ぶこともある、という位置づけになっており、現世の生活からは離しておきたいという考えがあって、死をあまり身近にしないような考え方が浸透しているということもあります。
いのちは大切、死はなるべく考えないように。
といったような漠然とした生活をしていれば関心も無くなってしまうのは当然のことですよね。
死の個性
重病者や大怪我を負った人、精神疾患がある方は 死を しっかり受け止めていると思われますので、自分にとっての命とはどのようなものかを考える機会が与えられているので自分の死生観の軸がしっかりしているものでしょう。
死を自ら選ぼうとする人は少なからず死への関心があって、そこを基準に思考や行動が伴って自殺を決行しようと考えるのだと思いますが、哲学的にも知識的にも自分なりに勉強して納得しているからこそ、大いに思い悩んでいる事でしょう。
思い悩んで決意したことへは敬意を払うべきと思います。個人の意見を尊重することは故人の人生を肯定的に認めて、大いに評価できることだと思います。
経済苦によって死を決意した場合は、お金さえあれば死を選ぶことは無かったのかどうか本人にしかわかりません。
例えば500万円手にしても、そこから後の展望が見出すことができなかったのならば、お金はいつか尽きるとして絶望感を抱くことも想像できます。
無限にお金があったとしても、生きる意味や目標などを見失ったのならば、これに絶望感を抱くこともあるでしょう。
人生は100人いたら100通りあります。
自ら死を選ぶ理由も100人いたら100通りあります。
どのような死に直面しても、故人を尊重し、讃えることができるような人間になるように死についてもっと勉強していけたらと思います。
自殺は暗くていけない事のなのか?
答えは人それぞれあるかと思いますが、きっと答えを導き出せる人はあまりいないものと思います。
しかし、考えることはできます、考えることは自由です。
時代は流れ続けています、法律や医療制度、高齢化社会問題、年金制度などはどんどん改められ留まってはくれません。
法律や制度が国民に対して優しいゆとりのある内容に変更される事はおそらく無いでしょう。
だから、死についての考え方はその都度変わるし、常日頃からアップデートしていかないとならないのだと思います。
最終的に死から逃れることはできません、わかっているのですから追われるように死んでいくのではなく、死に挑んでいけるような知識や教養を身に着けたいですね。
変な言い方になりますが
どのような死でも
楽しく死にたいし
どのような死でも
死者へは敬意をもって送りたいです
皆様はどのように考えるのでしょうか?
お疲れさまでした、今回はここまでです。
いつも、駄記事につきあっていただきましてありがとうございます。
皆様に良い死が訪れますように願っております
”死テラシーブログ”
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