死の自分哲学 死とカレーライス
哲学というとなんだか難しいと感じる人もいるでしょう。私自身も哲学がなんなんだかよくわかっていないのですが、そんなもんはこっちで勝手に解釈してやればいいだけの事です。
例えば、カレーライスをどのように食べますか?
といった場合、どうでしょうか?
どのように食べるってどういう事ですか?
カレーの種類にもよる、何を使って食べるのか?スプーンなのか素手なのか?米なのかナンなのか?ソースやしょうゆをかけるのか?卵を載せるのか?福神漬けか?らっきょうか?ルーとご飯をどのように混ぜ合わせるという事?
それを説明してくれないと、答える事ができないじゃないか、
と言う人は凄~くまじめな方です。
そのような細かい事はどうでもいいのです。
再び、カレーライスをどのように食べますか?
その答えを自分なりに勝手に解釈して、勝手に答えを出せばいいのです。
どうしてそのように食べるのですか?
という問いに対しては、誰しもが何かしらの答えはあるはずです。
「カレーをただ食べるのに哲学的な事などを考えるはずないじゃないかっ!」
という方がほとんどでしょう、しかし、
ハイ出ましたっ!
【カレーをただ食べるのに哲学的な事などを考えるはずがない】
ここでは、それを哲学と言ってしまいましょう。
【カレーをただ食べるのに哲学的な事などを考えるはずがない】
という哲学が人類史において一つ発見されました。
素晴らしい事です。
またまた、質問です!
あなたは、いつ頃どのように死にますか?
そうなると、死に対して人は何かと身構えます。
難しい問題だからとか、デリケートな話だからといって逃げてませんか?
死に対して語る事ができるのは、大学のエライ先生や宗教関係の人に任せておいた方がいいよと考えていませんか?
どうしてでしょう?
自分だっていつか死ぬのに、死に対する考え方を他人任せにしていては、いざ死が目の前に迫って来た時に困るのは自分です。
だから、死に対して自分の哲学を持つことは重要です。
死というタスクにどのように対処してゆくのか、イメージをするためです。
【死というものはコワいから考えないようにしている】
すばらしい立派な哲学です、それで良いのです。考えないようにしているという事、それは逃げではありません。
考えないようにしているという事を考えています。死がコワいという事も考えているし、考えないようにしているが死をしっかり考えている。
ただ、漠然と死がコワイと考えている…何か根拠はあるの?
どうしてコワイと思ったの?
そのようなマインドからスタートするとわかりやすいかもしれません。
あなたにとって死とは…