死ぬために養生をする 戦国武将・松永久秀の死に方に学ぶ

歴史

松永久秀ってナニモノ?

松永久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将で、織田信長の家臣として活躍しました。彼は特に策略家として知られており、多くの謀略を巡らせて敵を陥れることで有名でした。

彼は織田信長の命を受けて、多くの城を攻め落とし、戦国時代の動乱期において重要な役割を果たしました。しかし、信長を裏切り対立して信長軍に包囲された城の中で自害する。

ザックリ言うとこんな感じ。

頭が良くて時世を見る目があるのだけれど、世渡り上手なだけの輩ではなく、自分のプライドを絶対に曲げないで死んでも筋を通すような人なのでしょう。

では、ここで松永久秀の三つのエピソードをご紹介します。

1. 平蜘蛛茶釜とともに爆死

松永久秀は、織田信長に二度も反旗を翻したことで知られています。二度目の謀反の際、信長は「名物茶器の平蜘蛛茶釜を差し出せば命は助けてやる」と持ちかけました。しかし、久秀はこれを拒否し、茶釜に爆薬を詰めて自ら爆死しました。(爆死の件は創作の可能性アリ、一般的には自害)この壮絶な最期は、「信念を貫いた武将」として語られています。

 

2. 日本初の「天守」を築いた

久秀は多聞山城を築城しましたが、この城の構造が後の「天守」の原型になったとされています。織田信長が築いた安土城の天守も、久秀の影響を受けたと言われています。

 

3. 信長を二度も裏切る大胆さ

戦国時代の武将は主君への忠誠を重んじることが多かったのですが、久秀は時勢を見極め、信長を二度も裏切るという大胆な行動を取りました。それでも一度目の裏切りは許されており、信長が久秀の才を評価していたことがうかがえます。

(名物茶器の平蜘蛛茶釜を差し出せば命は助けてやる)

(信長が久秀の才を評価していた)とあるように 

自分が死ねば一番悔しがるのは信長自身だ!

茶釜が消失すれば一番悔しがるのは信長自身だ!

だったらこの茶釜と一緒に消えてやろうではないかと久秀の高笑いが聞こえてきそうですね。

では、どうしてそこで養生が出てくるのか次の項でご紹介します。

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