まとめ・死に方は選べない、失敗死は避けられる
好き勝手書いてきましたが、ザックリ簡単に結論を出しますと、
死に方はコントロールできないということです。
木谷恭介という人は
死に方に失敗した人
ということになります。
失敗死ということになります。
仏教の教え的には、煩悩(ここでは断食死で死ぬ)があるから、断食死がしたいという欲望によって、本人はおおいに苦しむことになりました。
そして、断食死は遂にできませんでした。
死に方に失敗したのです。
そして、持病の心臓疾患で死にました…
希望の死に方ができませんでした…
自身の希望どうりにならずに死にました…
人生の最後の最期を失敗で迎えました…
これは、本人もそう認めざるを得ないところでしょう。
こんな死に方でよかったの?
と個人的には思うのです。
ヒトは、脳幹や視床下部によって自律神経や生命維持の活動が自動的に行われます。
心臓や肺の運動による血流や呼吸が無意識で行われるのがソレです。
ただ、寝っ転がっていても一日二日ほど飲まず食わずでも、自動的に生きるように仕向けられているのです。
そんな生命活動という自然の流れに逆らうからこのように不本意な最期になるのです。
煩悩が無ければ、苦悩は無くなる。
何も余計な事は考えないでシンプルに生きればいいだけです。
どのように死にたいかという煩悩を消し去り、
生命活動が終えるまでただ生きる
ことに重点を置くことによって、良い死に方ができるのだと思います。
どのように死にたいか?
そんなことは考えなくていい、どうせ希望どうりにはならないからだ。
希望どうりの死に方は”自殺”しかない。
事故や災害等のアクシデント、病や老化で生命活動が衰えることがあるでしょう。
アクシデントなら酸素不足や出血多量など、病や老化なら飲食欲の衰えなど、生命活動が終えようとするときは状況に身を任せた方が楽になると思います。
抗うから無駄に余計に辛くなるのです。
いい人生だったと思えるように死んで行けば、良い死に方になると思います。
終わり良ければすべてよし。
木谷恭介という人間が教えてくれた、死に方の教訓を大切にして生きていきたいと思います。
最後に…病院に近寄らずに治療を極力しなければ理想の最期か迎えられる確率は高くなります。要するに病気を治さず痛みだけを取り除いてもらって自然に身を任せることができれば成功死ができるものだと考えます。(高齢者に限る)
”死テラシーブログ”