目的を見失うとこうなる
そもそも目的は死ぬ事だったのでないか?
断食安楽死を成し遂げるために生きる希望が湧いてきているとうことに気付いていない。
生きる希望が湧いてきているということは、免疫細胞とか脳内分泌物とか活発化して、よく食べ健康になろうとするでしょう。(私見)
木谷恭介という人は『死にたい老人』の刊行からおよそ1年後に、心臓の病気で亡くなたそうです。
つまり、断食安楽死の試みとはあまり関係なく、持病の心臓疾患による自然な死だったということになります。
初めからそれでよかったんじゃないの?
断食の期間中QOLはどうだった? 充実していたか? 残り少ない人生の時間は楽しかったか?
少なくとも絶食中は辛い痛い苦しい思いをしていたはず(本文中にも辛い苦しい痛いという描写はさんざん登場する)
そんな人生最終版の生活それでよかったの?
人は、特に終末期の病気持ちの方などは目的を持っていたり、何か小さなことでも達成した時には免疫力が上がって食欲も増え睡眠の質もよくなり、多少なりとも一瞬でも元気になることがあるそうです。
絶食死を生きる目的として、その目標に向かって日々を過ごしていればそりゃあ心身共に元気になって食欲も湧くだろう。
高齢者や何かの病気になった時や精神に不調があった時は自然に身を任せる。
食べたいときには食べる、食べたくないときには食べない、そしてだんだんとやせ細り眠る時間が増えて最終的には死に至る。
これがほんとうの絶食安楽死なのだと思います。
私自身が薦める絶食死とはこういうものです。
医療も最小限にとどめて、あとは身体の要求するとおりに身を任せる。
そうすれば穏やかな死に方ができるでしょう。
枯れるように死ぬということです。