どうもこんにちは、栄養素は全くないのに生き延びている妙なブログ
”死テラシーブログ”
でございます。
今回はこれまた奇妙な本と出合ったのでご紹介します。
「死にたい老人」 著・木谷恭介
なんとこれ、83歳の老人が餓死に挑戦するという、何ともクレイジーな内容に興味を持ちましたので読んでみました。
餓死、絶食死には個人的には強い思い(推奨したいくらい)がありますので、たった一つのサンプルですが何かの参考にはなると思い読んでみました。
自身は絶食死による安らかな死の可能性を信じている変わり者なのです。
過去記事です。物好きな方行ってみてください。


さっそくこの本読んでみましたが、がっかり! 浅はか! 不純!
なんだこれ!
人生で初めて、本を読んであきれてものも言えない状態になりました。
しかし、そこにはちゃんと学びがありましたので今後の人生の肥やしにしていきたいと思いました。
そんなことを、だらだら綴ってまいります。
という訳で、著者と本のご紹介。(本の紹介ブログではありません)
木谷恭介(本名:西村俊一、1927年11月1日~2012年12月9日)は、大阪府生まれの推理小説家・放送作家。旧制甲陽中学校卒業後、浅草の劇団やルポライターを経て1977年に「俺が拾った吉野太夫」で小説クラブ新人賞を受賞。1983年から旅情ミステリー中心の創作に転じ、『宮之原警部シリーズ』を展開し、静岡県掛川市を拠点に多くの作品を発表しました。晩年には2011年に『死にたい老人』を刊行し、断食安楽死への挑戦を記録。翌2012年12月9日、心不全で85歳で亡くなりました
By・chatGPT
『死にたい老人』(木谷恭介著、新書)は、83歳の小説家が「断食安楽死」を決意し、約50日間にわたり自死を試みる様子を日記形式で克明に記録したノンフィクションです。老いによる身体的衰えや性機能の喪失、社会・政治への失望、そして尊厳ある最期への渇望が背景にあり、断食中には食欲や頭痛、テレビのグルメ番組への誘惑、東日本大震災のニュースへの動揺など、人間らしい迷いや恐怖がリアルに描かれています。断食は三度にわたり実行されますが、最終的には死への恐怖や身体の本能的な抵抗から中断。著者は「人は理性的に死ぬことはできないのでは」との結論に達しています。孤独や社会の問題、死生観について考えさせられる衝撃的な一冊です。
By・chatGPT
この本突っ込みどころが多すぎて数えたらキリがないほど、
ほんとコイツ、マジで何やってんの?
という部分が数多くあります。
そもそも根本的に???おかしな点も数多くあります。
その最たるものは、この方心臓の病気を持っていて発作で入院しているんです。
83歳で心臓の持病を持っていたら数年後に心臓病で自然に死ねるって考えるじゃん、ふつう。
その時が来るまで執筆活動をしたらいいじゃん。
最後の最期まで仕事をして、パソコンを叩いて死んでいったらいいだけのハナシなので、わざわざ断食安楽死をする必要がないと思うところがいちばんの違和感。
その次に、持病による発作を抑えるために薬を飲まないといけないという事で、空腹なのに薬を飲んで胃をおかしくして痛みに耐えかねて救急車を呼ぶ始末…
仕事中に心臓発作で独りひっそり死んで行けばいいじゃん!
その次に、空腹に耐えきれずに薬を飲むためという口実でコンビニで買い食い…
そして、東日本大震災の報道を目の当たりにして、死ぬのが恐くなって断食は”中断”「失敗」ではなく”中断”という落としどころがまた腹立つ!
とっくのとうに断食安楽死など失敗しているんだから中止します。
断食安楽死は出来ませんでしたでいいのに、
中断…
という表現。
全然本気じゃ無い (# ゚Д゚)
断食絶食死以外では死にたくない! 死にたくない!
頭では死にたくないという事を認めたくないが、身体が栄養を欲しているからしかたが無いから、コンビニで買い食いをする。
根本的な死にたいという気持ちはいつの間にか断食安楽死にこだわるあまり、薬を飲み続ける。
空腹服薬による体の異変により救急車を呼ぶ。
救急車を呼ぶという事は延命を希望しているという事、何のために延命するのかと言えば、断食安楽死をするため。
希望どうりの死を望むための延命? 死ぬために延命するの?
断食安楽死を遂行することが生きる希望のようになっているではないか。
しかも、断食安楽死を希望しているヤツを一時生かすために救急車が一台稼働している事実。
ほんとうに生きることを望んでいるいる人がどこかで救急車を待っているかもしれないというのに、断食安楽死がしたいという個人のわがままのために救急車が一台無駄になっている。
この老人は理想の死を追い求めていて、その理想の死のためになら、なにがなんでも生きるという理想の死のために生きるという矛盾が発生している事に気付いていない。
思考が破綻している。
この人、即身仏にも触れているのですが、そもそも即身仏に挑戦するお方は目的が死ぬ事では無く、涅槃や悟りの境地に達することを目的としているために命を落とすことは手段でしかない。
修行僧が生きたまま土中で断食・瞑想し、やがて亡くなったあと自然にミイラ化して仏となった存在を指します。
目的は、自らの肉体を仏に近づけ、人々の救済のために永遠に祈り続けることでした。カンタンに言うと、
「修行僧が自らミイラ化して仏になり、死後も人々を救う存在になったもの」
が即身仏です。by・chatGPT
世界でも荒行で命を落とすような信仰はあるようですが、死を目的とした行為としている人は誰一人いない事でしょう。
目的はただ一つ、信仰の最上地点に達したいという願いだからだ。
そして、全世界の人類や生物が幸せに暮らせますようにといったような願いの為でもある。
この作者のように、個人的なわがままのために死があるのではない。
ただ死にたいとする愚かな人間が信仰の境地のために命を捧げる即身仏の行為と同じように考える事自体腹立たしく感じる。
真剣に読んでみたけど、バカバカしくなってきましたが何か学びがあるハズだと信じて最期まで読みました。
そしたらありました。学びが。
人は死に方を選べないんだ!
死に方をコントロールしようとすると、苦悩が付きまとい最終的には
”失敗死”
に至る。
という事を学びました。
*失敗死=理想の死に方を強く追求するがために苦悩を伴い、思いどうりの死に方ができなくなる私自身の勝手な造語です。