遺書が無いと家族が死ぬ!

尊厳死 安楽死

皆さんこんにちは、ひっそり佇む秘境ブログ

”死テラシーブログ”へようこそ

あなたとの奇跡的な出会いに感謝いたします

今回は、

遺書遺書の可能性

について考えていきます。

遺書と言ったら家族や親戚、近しい周囲の人への感謝の気持ちやら、死後の事など残すものだと想像しますが、ここでは

周囲の人間と(他人でも)

今の自分

にポイントを当ててみます。

遺書でつまらない毎日が楽しくなる?

遺書は自分や家族、親しい友人のために書くだけのものではない、

赤の他人にも関係するものだ!

えっ!赤の他人は関係ないだろっ!

はいっ! 少し関係あります。

今を生きる自分自身に関係があります。

では、説明しますね😊

 

何のために遺書を書くのか、それは人それぞれです。

最近は遺産相続や自身の医療のありかた、自身の尊厳をあらわすもの、家族への感謝を伝える、などがありますね。

 

遺書=死と連想する方がほとんどだと思います。

死=病気や事故と連想する方がほとんどだと思います。

病気=高齢者・闘病者と連想する方がほとんどだと思います。

遺書→死→病気→高齢者・闘病者となりがちです

 

しかし、死というのは当たり前ですが誰にでも、いつどのようにやってくるかわかりません。地震と同じようなもので、自分は若いし持病も無いし、きっと大丈夫だろうなどと根拠のない妙な自身があったりしますね。

そんな気持ちが落とし穴なのです、今日の退屈な日々はいつなんどき儚いものになってしまうかわからないのに退屈と感じてしまいます。

旦那の嫌な癖や、いうことを聞かない子供、ムカつく上司・同僚、自分と合わない教室の空気感、毒親などなど、退屈どころか嫌悪感しかないということもあるでしょう。

あたりまえの退屈な日常が、いかに素晴らしいものと再認識させてくれるツールの一つが

遺書

だと思っております。

どうしてかと言うと、それは…

自分も周囲の人間も明日死ぬかもしれないから…

店でレジを打ってくれた人も、明日死ぬかもしれないから…

街ですれ違った人も、今日死ぬかもしれないから…

落とした手袋を拾ってくれた人も、今死ぬかもしれないから…

 

カンタンな例え話をします。

銀行の銀行員さんのミスにより平日に会社を休んで、とてつもなくめんどくさい書類作成、提出をしなければならなくなったとしましょう。

きっとあなたは銀行員さんに本気で怒ることでしょう、罵ったり、反省の弁を述べさせたり。

そして、もしもあなたに未来予知能力があったとして、この銀行員さんが今日の帰宅中に交通事故に遭って死ぬとわかったのならあなたはどうします?

これはこれ、それはそれ。

同じ熱量で怒りますか?

ちょっとヘタな例え話になってしまいましたが、家族だけではなく誰しもがいつ死ぬかわからないのです。

遺書を書くということは死を意識すること、それは自分だけの死では無くて、赤の他人や周囲の人への死も意識することができます。

そんな気持ちが常に心に存在するのであればいろいろな出来事に寛容になれることもあるのではないでしょうか?

遺書を書くことで、今生きている自分の行動がおだやかになり物事に寛容になり、落ち着いた気持ちで毎日過ごすことができるのではないでしょうか。

今日という平凡な一日は二度となく、平凡な明日が必ずやって来るという保証は無いのです。

一方的な持論になりますが、

毎日を大切に生きるという意識を持てる、

これも遺書の可能性の一つだと思います。

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